今日衆議院の教育再生特別委員会で、
いわゆる「教育3法案」が可決。
この3法案で変わることを安倍総理の言葉を借りていうと
「学校現場で道徳や公共の精神を教えること」だそうな。
これは目的では大筋間違っていない。
だがしかし、根本的にちょっとおかしい
と、感じるのは私だけだろうか。
ひっかかりは「学校現場で・・」。
すべて「学校」に押し込めばそれでいいのか!?
「道徳や公共の精神」は学校で学ぶ前に
家庭や地域で学ぶことではないのか。
かといって、その「家庭」や「地域」が機能不全に
陥っていて、今日の「教育の荒廃」の大きな要因なので、
やっぱりすべて面倒なことは「学校」に押し付ける、
という理屈なのか!?
これには、私ははっきりと「NO!」と言いたい。
「教育改革」というのは、「家庭」や「地域」の教育環境を
整えることも大切なことであって、その根本にはやはり
「教育をする立場にある人」の資質にかかわる問題だと思う。
教育の行き詰まりを感じる際の特徴的な言葉を挙げると、
親は「疲れているんだ」「誰に食べさせてもらっているんだ」
「お前のために言ってるんだ」「もっと勉強しろ」
「何度同じことをいわせるのか」などと言うのが定番ではないか。
そして、子どもは「いちいちうるさい」「好きなことさせろ」
「うざい」「誰も産んでくれとは頼んでない」「子どもにだって
権利がある」などと主張する。
なるほど、それぞれもっともかもしれないが、
やはりこれらには「基本」が欠落していると私は思う。
たとえば、「命」というのは連続性であり、
親もそのまた親もこの世に存在しなければ「命」はありえない。
そんな「基本」が自然にわかっていれば、お墓参りもすれば
どんな「命」だって大切に思う。生きていることの幸せを感じる。
食べ物だって、ほんとうにさまざまな幸運と努力の成果で
食卓にあがってくるものだ。それを知らずしてありがたさが
わかるはずはない。
まずは、そんなことを教えられないで、
学校教育を糾弾することができるだろうか。
だれがなんと言おうと、
まずは「親」がなにを教えるかだと、私は思います。
教育改革はまず「親学」から!
「親が学ぶこと」これが、教育改革の第一歩だと思う、
今日このごろです。