練り上げた原発県民投票条例案の修正案を
本会議に提出いたしましたが、大差で否決されるかたちとなりました。
新しい民主主義のかたちを静岡から発信したかったのですが
力及ばず残念至極です。
またしても「議会の論理」という説明もしたいくない
”やっかいな怪物”が跋扈をして否決に至ったと、
私は総括をしたいと思っています。
ただし、一歩踏み出したことでよしとせねばなりませんし、
否決したということは、県民投票で県民のみなさまの判断を仰がなくても
「議会で十分判断でき、責任もとれる」ということを表明したことになるので、
「議会の責任は増した」と私は思っていますので、大切なのはこれからです。
自民党も「議論を続ける」ということは表明し、
本会議での反対討論も『県民投票については否定しないが、
この条例修正案には反対』ともとれる内容であったと思うので、
今後はしっかり連携をできるように努力して、
視察とか勉強会だけではパフォーマンスだというそしりを
受けるだけなので、具体的な議論をし、真剣に県民投票条例の成立を
こつこつとめざしてゆきたいと思います。
ただし、この案件は政党というより、
個々の議員の資質や立ち位置の違いがあるので
政党の縛りで押さえ込むものでもないでしょうし、
真剣に議論すれば議論するほど、
個人でもかなり見解に差異がでてくることは、
今回のうちの会派の例をひくまでもなく予想されますので、
大変な道のりになると思います。
まあ、やるしかありませんね。
ひとつだけ残念だったのは、
さまざまな報道があるなかで、ジャーナリストとしての
軸がよくわからない記事や報道があったことです。
批判は甘んじて受けるとしても、
一生懸命に議論したり、悩んだり、取り組んだひとたちのことは
描こうとせず、結果だけをみて近視眼的に批評だけをする。
こんなことはだれでもできると思います。
ジャーナリストというのは、そのモノゴトの意義や背景、
今後の展開などを自分自身の五感すべてを投入して
描いてこそ、本物のジャ-ナリストだと思うのですが、
残念なことに、そんな骨のあるジャーナリストが少なくなっていると
感じるのは私だけではないはずです。
いまや報道はこの世の中を変える最大の力を持っています。
それを報道人のひとたちにはわかっていただきたいと思います。
この世の中には責任と義務があり、それを果たしてこそ
権利を行使できるのだ、と私は思っています。